恩田陸「蜜蜂と遠雷」のネタバレ解説

蜜蜂と遠雷


最初に説明しておくと、この小説はバリエーション豊かな比喩表現や、
キャラクターの細かい心情描写が凄い話なので、
あらすじではその面白さが伝わらないと思います。

しかし、それを承知の上で、いつものようにあらすじです。

芳ヶ江(よしがえ)という町で、3年に1度、
国際ピアノコンクールが開かれています。
時期は、10月か11月くらいです。

第6回の今回、風間塵(かざま・じん)という16歳の少年は、
パリでのオーディションに参加しようとしていました。

このオーディションは、書類選考落選者を対象にしたものです。

しかし、ヨーロッパで養蜂家をやっている父親を持つ風間塵は、
父親の仕事を手伝っていたせいで遅刻し、
ラストの順番に回されました。

審査委員の嵯峨三枝子(さが・みえこ)は、
風間塵の書類の「師事した人」の項目に、
「ユウジ・フォン=ホフマンに五歳より師事」
と書かれているのを見て動揺しました。

ユウジ・フォン=ホフマンは今年2月に亡くなった高齢のピアニストで、
世界中の音楽家や音楽愛好家に愛されていた人物でした。

風間塵の演奏は他のコンテスタントとは音が違っていて、
悪魔のようだ、恐ろしい、おぞましい、と三枝子は思いました。

風間塵が帰って行くと、許せない、あんなの、
ホフマン先生に対する冒涜だわ、と三枝子は怒りに震えました。

しかし、数ヶ月前にこの世を去ったホフマンはそれを予想して、
次のような推薦状を遺していました。

「皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。
文字通り、彼は『ギフト』である。
(中略)
中には彼を嫌悪し、憎悪し、拒絶する者もいるだろう。
しかし、それもまた彼の真実であり、彼を『体験』する者の中にある真実なのだ。
彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、
皆さん、いや、我々にかかっている。」
という内容でした。

他の選考委員のシモンとスミノフにその推薦状を見せられ、
三枝子は恥ずかしくなりました。
また、シモンとスミノフは風間塵の演奏に、
三枝子のような生理的な拒絶感は抱いていなくて、
むしろゾクゾクして多幸感があったと言いました。

「権威派」「良識派」である他の選考委員に風間塵の演奏を聴かせて、
顰蹙を買わせるのは、それはそれで楽しそうだろう?
と説得され、三枝子は風間塵を合格させることを承知してしまいました。

場面が変わり、他のコンテスタントである、
栄伝亜夜(えいでん・あや)の視点になります。

亜夜は、内外のジュニアコンクールを制覇し、
CDデビューも果たしていました。

しかし、亜夜の最初の指導者であった母が、
13歳の時に急死してしまいました。

母の死後、最初のコンサートが始まる直前に、亜夜は、
あたしは独りきりになったんだ、もうお母さんはいない、
と理解してしまいました。

ステージのグランドピアノがまるで墓標のように見え、
亜夜はくるりと踵を返し、走って、屋外に飛び出し、演奏しませんでした。

コンサートをドタキャンした亜夜は、かくて、「消えた天才少女」となりました。

しかし、大学進学を考える時期に、母と音大で同期だった浜崎という男が訪ねてきて、
お母さんの命日も近いし、彼女が好きだった亜夜ちゃんのピアノを聴かせてくれないか、
と頼みました。

亜夜は、ショスタコーヴィチのソナタを弾きました。
それを聞いた浜崎は、ぜひうちの大学を受けてもらえないでしょうか?
と言いました。
実は、浜崎は日本で3本の指に入る名門私立音大の学長だったのでした

20歳になった亜夜は、
浜崎の意向で、現在の指導教官から第6回芳ヶ江国際ピアノコンクール出場を勧められ、
学長への恩返しのつもりで亜夜は出場することにしましたが、
あまり乗り気ではありませんでした。

また場面が変わり、
他のコンテスタントの高島明石(たかしま・あかし)の描写があります。

明石は28歳で、結婚して、明人という幼稚園児の息子もいます。

28歳というのは、芳ヶ江国際ピアノコンクールの出場者では最高齢であり、
応募ぎりぎりの年齢でした。

明石の家はごく平均的なサラリーマン家庭、妻は幼馴染で高校の物理の先生、
明石自身は大きな楽器店の店員です。

高校時代の同級生、仁科雅美は、TVのドキュメンタリーを撮りたいと言い、
明石に密着取材していました。

TV出演を決めたのは、明人が大人になった時のために、
パパは「本当に」音楽家を目指していたのだという証拠を残しておくためだと、
周囲には説明していました。

しかし、本当は、孤高の音楽家だけが正しいのか?
音楽のみに生きる者だけが尊敬に値するのか?
生活者の音楽は、音楽だけを生業にする者より劣るのだろうか、
と怒りと疑問を持っていたからでした。

明石が中三の時に他界した祖母が買ってくれたピアノを、明石は弾きます。

そのピアノは、養蚕をしていた祖母が蚕を育てていた蔵の中にありました。

明石はこの蔵にこもって、コンクールの準備の仕上げをすることにしました。

そして、いよいよ、2週間に亘る、
芳ヶ江国際ピアノコンクールのオープニングナイトが始まりました。
一次予選は明日からです。

作曲家の菱沼忠明(ひしぬま・ただあき)が、三枝子に、
『蜜蜂王子』の風間塵についての話をします。

めったに弟子をとらないことで有名だったユウジ・フォン=ホフマンは、
ホフマンの方から出かけていって風間塵にピアノを教えていた、
と菱沼は言いました。

菱沼はそのことを、ホフマンの妻から電話で聞いていました。

そこへ、審査委員のナサニエル・シルヴァーバーグがやってきます。
ナサニエルは、三枝子の元夫であり、
ホフマンの数少ない、弟子の1人でもありました。

ナサニエルは週に一度、飛行機でホフマンの家に通って教えを請うた、
それでも推薦状など書いてもらったことがない弟子だったので、
風間塵を合格させた三枝子に対して怒っているようでした。

ナサニエルは三枝子に、ナサニエルの弟子である、
マサル・カルロス・レヴィ・アナトールという19歳の少年を紹介します。

マサルは母親がペルーの日系三世でしたが、
その顔はどちらかと言えばラテン系で、既に日本人の面影は見えませんでした。

その頃、亜夜は浜崎学長の娘であり、2年先輩の奏(かなで)から借りる、
ステージ衣装のドレスを選んでいました。
ヴァイオリニストである奏は、亜夜が入学してから何かと世話を焼いていました。

コンクールに乗り気でない亜夜に、
奏は、あなたのファンだったんだよ、と打ち明け、やる気を出させようとしました。

ピアノに触れようと、亜夜が大学の練習室に行くと、
そこに不法侵入してピアノを弾いていた風間塵と出会いました。
しかし、風間塵は素早く逃げてしまいました。

ここでマサルの回想です。

マサルは5歳から7歳までの3年間、日本に住んでいたことがありました。
母親の意向でマサルは公立の小学校に入学しましたが、
日本の小学校の「世間」から拒絶され、
再びフランスに戻るまでの10ヶ月、
マサルはインターナショナルスクールに転校せざるを得なくなりました。

しかし、近所のピアノ教室の家の前を通りがかり、
1歳か2歳年上の、ト音記号の刺繍の付いたカバンを提げた女の子に、
いつもピアノ弾いてるの、きみ?
と話しかけました。

絶対音感を持つマサルの耳がいいことに気付いた少女は、
マサルをピアノ教室の先生に紹介し、一緒にピアノを弾くようになりました。

マサルがフランスに戻ることになった時、
ピアノ弾いてね、約束だよ、と少女は言い、
ト音記号の付いた楽譜入れのカバンをマサルにくれました。

フランスに戻ったマサルはピアノを習うようになり、
2年もすると振動としてその名を知られるようになりました。
その後、渡米し、アメリカ出身のコンテスタントとして、
マサルは芳ヶ江国際ピアノコンクールに出場しました。

回想終わりです。

コンクール初日。

高島明石は、スニーカーの靴紐が結べなくなっていることに気付き、
「上がってる」ことを自覚し、動揺していました。

一次予選では、90人近くいるコンテスタントは、くじ引きで決めた演奏順に、
1人20分以内で演奏します。

初日の目玉は、優勝候補の1人と目される中国系アメリカ人の少女、
ジェニファ・チャンですが、栄伝亜夜と浜崎奏は予定した新幹線に間に合わず、
ジェニファ・チャンの演奏を聞き逃してしまいました。

その頃、風間塵は、ピアノ、欲しいなあ、と考えていました。
コンクールに入賞したら、
養蜂家の父親にピアノを買ってもらうという約束をしていたのでした。

風間塵の家にはピアノがありませんでしたが、そのことがいかに異常なことかも、
風間塵の念頭にはなかったのでした。

1日目の最終演奏者は、22番の高島明石です。
明石はバッハの「平均律クラヴィーア曲集 第一巻第六番ニ単調」、
ベートーヴェンのソナタ、第三番、第一楽章、
ショパンのバラード二番を弾きました。

明石の妻の満智子はその演奏を聴き、
あたしの夫は、音楽家なんだ、と思いながら拍手をしました。

睡眠時間を削って練習時間を捻出した明石の演奏は、
審査委員にも好評でした。

一次予選2日目には、
「ジュリアードの王子様」と呼ばれるマサルの演奏を聴きに、
若い女性が客席を埋めていました。

マサルを見て、亜夜は音楽を愛することを教えてくれた綿貫先生を思い出しました。
亜夜は綿貫のレッスンが大好きでしたが、綿貫は亜夜が11歳の時に病死しました。

マサルが演奏する、バッハの平均律クラヴィーアを聞いた亜夜は、
音楽がおっきい、と思いました。
マサルの演奏が終わると、こりゃ凄い、ほんとに優勝しちゃうかもねー、
と亜夜は奏に言いました。

2日目の一次予選が終わった後、亜夜はトイレに行きましたが、
そこで若い女の子2人が自分の噂をしているのを聞いてしまいました。

2人は、見ものだよね、栄伝亜夜、一次で落ちちゃったら笑えるよね、
怖くないのかな、あたしだったら、怖くて出られない、
またドタキャンしちゃったりして、などと話していました。

亜夜は、出るのをやめてしまおうか、と思いましたが、
浜崎学長や奏のことを考え、棄権することもできない、と思い直しました。

一次予選最終日。
風間塵の演奏の順番がやってきました。

風間塵は事前に、調律師の浅野に、
ステージの奥に置かれている3台のグランドピアノのうち、
右端のものを30センチ動かしてほしい、と頼んでいました。

しかし、ステージマネージャーの田久保寛は、
客の入りが多く、立ち見もいっぱいで、
壁の前に立っているお客さんが相当音を吸うと思う、
だから普段よりもパッキリ弾いたほうがいい、という内容をアドバイスしました。

それを聞いた風間塵は、こないだお願いしたピアノの位置を元に戻して、
今度は逆の方向に30センチずらしてください、と浅野に伝えてもらいました。

風間塵が演奏を始めると、ナサニエルは、
どうしてこんな、天から音が降ってくるような印象を受けるんだ?
と思いました。

マサルも、いったいどうやってピアノを鳴らしているんだ、
と舌を巻いていました。

マサルが演奏を終えて引き揚げると、
観客たちの拍手と歓声、悲鳴と怒号、熱狂がホールを揺らしました。

風間塵の演奏は、審査員に恐慌をもたらしました。
アンビリーバブル、ファンタスティック、奇跡的だ、
下品だ、いたずらに煽〇的だ、サーカスだ、
と、反応はまっぷたつに割れていました。

風間塵の演奏は、しばらく忘れていた、心の奥の柔らかい部分、
生々しい部分に触れてくるのだ、と三枝子は分析していました。
それは、誰もが持っている、胸の奥の小部屋、
「本当に」好きな音楽のイメージなのですが、
プロになると自分で自分に満足できる演奏などできないことが痛いほど分かってきて、
胸の小部屋はますます神聖な場所となります。

風間塵の演奏は、本人も忘れていたその小部屋を突然訪れ、
いきなり乱暴に開け放つため、扉を開け放ってくれたことに感謝する熱狂か、
いきなりプライベートルームの戸を開けやがって失礼なという拒絶かという、
極端な反応になって顕れるのでした。

栄伝亜夜は風間塵の演奏を聴き、この子は、音楽の神様に愛されてるんだ、
と思いました。

弾きたい、風間塵のように、弾きたい、かつてのあたしのように、
と思い、亜夜は演奏をしました。

かつて亜夜のファンだった明石は、やはり彼女はアイドルだった、昔も、今も、
と思いました。

ナサニエルは、マサルの強敵になるのは、カザマ・ジンではなくこの子のほうだ、
と思いました。

奏は、お帰り、亜夜ちゃん、やっと、やっとステージに帰ってきてくれたんだね、
と思いました。

演奏終了後、大ホールの廊下の隅のエレベーター前に行った亜夜は、
「――アーちゃん?」
とマサルに話しかけられました。
それを聞いた亜夜は、「マーくん?」と言いました。

マサルが子供の頃、日本からフランスに戻るときにト音記号のカバンをくれた女の子が、
亜夜だったのでした。

お互いに再会を喜び合い、亜夜は、マーくんって、ほんとに天才だったんだね、
と言いました。
綿貫先生が亡くなったことを伝えると、マサルはお墓参りしたいと言い、
一緒に行く約束をしました。

プレスらしき男女に取材を申し込まれましたが、マサルは亜夜の手を握り、
取材を断ってホールに入りました。

コンテスタント全員の一次予選が終わると、
審査委員長の70歳近いロシア美女、オリガ・スルツカヤが、
二次予選に進む24人のコンテスタントを発表します。

不利だと言われているトップバッターの、1番、アレクセイ・ザカーエフ、
12番、ジェニファ・チャン、22番、高島明石、
30番、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、
81番、風間塵、88番、栄伝亜夜などが残りました。

一次予選を突破した明石は、
ホールのロビーに貼られた自分の写真に、ピンクのリボンの花が付けられたを見て、
携帯電話でその写真を撮りました。
自分と一緒に映るように自撮りしようとして、試行錯誤していると、
雅美に見つかって笑われ、写真を撮ってもらいました。

翌日の午前中から3日間に亘る二次予選が始まります。

演奏時間は一次予選の倍の40分以内です。
有名作曲家の曲から合計3曲以上のほかに、
芳ヶ江国際ピアノコンクールのための委嘱作品、
菱沼忠明の「春と修羅」がありました。

唯一の新曲で現代曲である「春と修羅」は、宮澤賢治の誌をモチーフにしたもので、
長さは約9分です。

また、「自由に、宇宙を感じて」と指示された即興の箇所、カデンツァがあり、
コンテスタントたちを悩ませていました。

「春と修羅」の部分がどうしても浮いてしまうので、
普通のコンテスタントは最初か最後に持ってきていましたが、
亜夜と風間塵は、あえて「春と修羅」をプログラムの真ん中に持ってきていました。

マサルと亜夜は2人でジェニファ・チャンの演奏を聴きました。
しかし、亜夜は、ダイナミックなのに単調、アトラクションだと感じました。

マサルと亜夜は「春と修羅」の話をします。
カデンツァの部分は、普通のコンテスタントは事前に譜面を起こすものであり、
マサルもそうしていましたが、亜夜は本当に即興で弾くつもりだと言い、
マサルを驚かせました。

明石の演奏順がやってきます。

明石は、1曲目に「春と修羅」を弾きます。

文学作品の解釈こそ、歳を経た者のほうが深いはずだ、
と明石は考え、練習時間のない中、1人で曲と向き合っていました。
改めて通勤時間などに賢治の誌や小説を読み返し、
ほぼ日帰りという強行軍で岩手に行き、
作品の舞台となったと言われる場所を見て回りました。

カデンツァには「あめゆじゅとてちてけんじゃ。」をメロディに乗せて演奏しました。

「春と修羅」以外のショパンのエチュード、リストの練習曲、
ストラヴィンスキー、ペトルーシュカからの三楽章も、調子よく弾きました。

明石の演奏を聴いた風間塵は、音符たちを「外へ」連れ出してやる、
という、ホフマンが亡くなる直前に交わした約束を思い出していました。

その日の夜、三枝子とナサニエルは、
風間塵について聞くために菱沼を会食に誘いました。

実は風間塵は、限りなく他人に近い、ユウジの遠い親戚でした。

風間塵の父親は養蜂家で常に移動生活で、自宅にピアノを持っていませんが、
行く先々でピアノのあるところを知っていて、
そこで弾かせてもらうのだそうだ、という内容を菱沼は言いました。

楽譜も持っていないから、聴いた曲は一度で覚えるか、
その場その場で即興で弾いていたのだそうです。

おまえさんたちに、あの子が採点できるのかい?
と菱沼は苦笑しました。

審査員は審査するほうでありながら、審査されています。
審査することによって、その人の音楽性や音楽に対する姿勢を露呈してしまいます。

それは、小説の新人賞、文学賞とかも同じですね。
どうしてこの人の作品を落として、この作品を受賞させたんだろう?
と思うような選考委員はいくらでもいます。

二次予選2日目のトップバッターはマサルです。

「春と修羅」のカデンツァを、
ジェニファ・チャンなどは師匠に頼んで作曲してもらっていましたが、
マサルは自分で書いていました。

マサルの弾いた「春と修羅」を聴いた亜夜は、
先生、やっぱりマーくんは凄かったですよ、
と綿貫に心の中で報告しました。

「春と修羅」に続いて、ラフマニノフの練習曲、「音の絵」、
ドビュッシーの練習曲「オクターヴのための」、
ブラームスの変奏曲を演奏します。

演奏を終えたマサルがロビーに行くと、ジェニファ・チャンに話しかけられました。

同じジュリアードのピアノ科学生、チャンは、
マサルに強烈なライバル心を抱いていて、
学校内でも2人はライバルとみなされていましたが、
マサルのほうではチャンをライバルだと思ったことはありませんでした。

チャンはマサルに少なからぬ恋心も抱いていて、
どうしてマサルが亜夜と一緒にいるのかと訊ねました。

幼馴染だと伝えると、チャンは亜夜のことを燃え尽き症候群だと言い、
いったんケチのついたアンラックな子と一緒にいると、
マサルの運まで吸い取られるわよ、と言いました。

マサルは、話して通じる相手じゃない、と内心、溜息をついて、
話を切り上げました。

ただ、チャンと話をしたせいか、亜夜に恋愛感情を抱いているのを自覚し、
しばらくのあいだ他のコンテスタントの演奏に集中できませんでした。

マサルのカデンツァを聴いた亜夜は、弾いてみたくて居ても立ってもいられなくなり、
亜夜の担当教授の友人で芳ヶ江でピアノ教室を開いている、
平田先生の自宅兼レッスン場に行きました。

しかし、そんな亜夜のことを風間塵が尾行していて、窓を叩き、
一緒にここでピアノ弾いてもいい? と訊ねました。

亜夜は塵と一緒にピアノを弾き、いつのまにか局が変わり、
フライ・トゥ・ザ・ムーンや、ベートーヴェンの「月光」の第二楽章、
第三楽章や、「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を弾きました。

飛べる、どこまでも飛べる、と思った亜夜は、
いつしか天井を見上げ、更にそこを突き抜けて高い空に浮かぶ月を見ていました。

亜夜は、そこで「春と修羅」のヒントを摑みました。

二次予選3日目。
奏とマサルは、亜夜を見て、なんだか今日は感じが違う、と言いました。
オトナっぽくなったと言われた亜夜は、
新曲とか、コンクールとか、こうしてみんなでここに集まってピアノ弾いてることって、
すごく面白いことなんだなって思ったの、そのせいかもしれない、と言いました。

風間塵の演奏が始まります。
塵のドビュッシーの練習曲、第一曲を聴いた奏は、
この子の演奏は、どの曲も、今このステージで、
彼自身が即興で紡ぎ出したフレーズのように聞こえる、と考えていました。

二曲目はバルトークの「ミクロコスモス」で、
ジャズっぽい気まぐれなメロディが塵によく似合っていました。

しかし、三曲目の、風間塵の紡ぎ出した「春と修羅」のカデンツァは、
すこぶる不条理なまでに残虐で、凶暴性を帯びていました。

明石は、「修羅」なのだ、風間塵は、「修羅」をカデンツァで示した、
と考え、自分の甘さを思い知らされたような気がしました。

四曲目はリスト、「二つの伝説」の第一曲、
「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」です。

本当に、鳥と話している、と三枝子は考えた後、
皆が譜面を再現し、譜面の中に埋もれているものを弾こうとしているのに、彼は違う、
むしろ、譜面を消し去ろうとしているかのような――と考えました。

最後の曲はショパン、スケルツォ第三番、嬰ハ短調で、
目覚めるような幕切れがあり、アンコールがありました。

塵の次に演奏する亜夜の一曲目は、「音の絵」、
二曲目はリストの「超絶技巧練習曲集」のひとつ、「鬼火」、
その次が「春と修羅」でした。

亜夜は「春と修羅」を弾きながら、後ろに母親がいるのを感じ、
頬に温かいものが伝いました。

カデンツァでは、母なる大地を表現します。

亜夜は、あの凄まじい「修羅」に満ちた風間塵のカデンツァを聴いて、
それに応えたのでした。
自然が繰り返す殺戮や暴力に対して、
それらをも受け止め飲み込んでしまう大地を描きました。

その後、ラヴェルのソナチネ、メンデルスゾーンの「厳格なる変奏曲」を弾きました。

二次予選が終わり、すぐに結果発表です。

二次予選に残った24人から、三次予選に残るのは12人です。

1番、アレクセイ・ザカーエフ、
30番、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、
81番、風間塵、88番、栄伝亜夜などが三次予選に残りました。

しかし、ジェニファ・チャンと、明石は落ちてしまいました。

終わった、俺のコンクールは終わったのだ、
となぜかさっぱりとした心理で思いながら、明石は妻に電話しました。

一方、ジェニファ・チャンは審査委員長のオリガのところにやってきて、
真正面から意議を唱えました。

しかし、ナサニエルはチャンに、君のテクニックは素晴らしい、
音楽性を否定するわけではない、しかし、1人や二人ではない少なからぬ数の審査員が、
君が三次予選に進めないと考えたのは事実である、
その理由を理解できないところに、
君が今回三次予選に進めなかった要因があるとは思わないか、と説明し、
チャンはやがて顔を歪めてワッと泣き出してしまいました。

チャンが会場を辞去した後、マサルは師のナサニエルに、
亜夜を紹介しました。

おまえ、競争相手のコンテスタントに惚れてどうする、
しかも、相手はこのコンクールでおまえの最大級のライバルとなる相手ではないか、
とナサニエルは心の中で叫んだようでしたが、
ナサニエルもマサルより少しばかり年上の時期、三枝子に夢中だったため、
雷を落とすのを我慢しました。

翌日はスタッフのための休みで、亜夜、マサル、奏、塵の4人は、
11月の浜辺を散歩していました。

海を離れ、商店街の中に、三味線の店をいくつか見つけました。
三味線を見ている亜夜、マサル、塵の写真を奏が携帯電話のカメラで撮ると、
他の3人も写真を撮りたがりました。

翌日から、2日間の第三次予選が始まります。

演奏時間は60分を限度とし、
事前に提出したプログラムを自由に弾いていいことになっています。

12人中6人が本選に進むことができ、本選に進めば入賞確定です。

1番のアレクセイ・ザカーエフは、これまで、
コンクールでは不利な1番という数字を引き当てたせいで、
半ば開き直って演奏していました。
期待せず、意識せずマイペースにしたことが、
本来のアレクセイ・ザカーエフの闊達かつおおらかな演奏を引き出していました。

しかし、入賞を意識してしまったせいで、欲が出て、動揺し、
つんのめるような速さで演奏してしまいました。
それでも、最後には何とか立て直して演奏を終えました。

マサルの演奏の番になります。
一曲目はバルトークのソナタで、ピアノを打楽器として演奏しました。

二曲目は、シベリウス、「五つのロマンティックな小品」でした。
三曲目の、フランツ・リストの大曲、ピアノ・ソナタロ短調を、
マサルは19世紀グランドロマンをイメージして弾きました。

三次予選1日目が終わると、風間塵は、
芳ヶ江にいる間にホームステイさせてもらっている、
父の友人である大きな花屋の党首、富樫に頼み、活け花を教えてもらっていました。

富樫の「野活け」を見て、塵は、活け花って音楽と似てますね、と言いました。

塵は、ホフマンと約束した、
狭いところに閉じ込められている音楽を広いところに連れ出す、
という約束について富樫に話し、
富樫さんが活けると、枝も花も活きてるんだよなあ、
まるで、自分が殺されたことにぜんぜん気が付いていないみたいに、と言いました。

第三次予選最終日。
亜夜はコンクールを満喫していましたが、それがお客さんとしての満喫であり、
コンテスタントとしてのコンクールに興味を失っていることに気付き、
愕然としていました。

一方、ホフマンとの約束の「外へ」を考えていた風間塵は、
実際に外に出て雨の中を歩き、空を見上げていました。
遠いところで、低く雷が鳴っていました。

自分の番になり、舞台袖に戻ると、調律師の浅野に、
天まで届くような音で、ホフマン先生に聞こえるようにしてください、
ぱっきりとは全然逆で、お願いします、と頼みました。

亜夜は、お願い、あたしを引き戻して、その、とてつもなくつらく、
とてつもなく素晴らしい世界に戻る理由をちょうだい、
と心の中で塵に頼んでいました。

塵の一曲目はエリック・サティの「あなたがほしい」です。
二曲目はメンデルスゾーンの「無言歌集」から、有名な「春の歌」、
三曲目はブラームスの「カプリッチョ ロ短調」を演奏します。

しかし、四曲目に移る前に、再び「あなたがほしい」を弾き始めました。

提出したプログラムと異なる演奏をして、規定違反ということになりはしまいか、
とマサルは不安を覚えました。

二度目の「あなたがほしい」がリタルダンドし、
ドビュッシー「版画」の「塔」、「グラナダの夕べ」、「雨の庭」を弾きました。
すぐにラヴェルの「鏡」を弾き、三たび「あなたがほしい」を演奏します。

亜夜はそれを聴きながら、舞台の上の風間塵と一体化しているように感じ、
会話している幻想を見ました。

幻想の中で、塵は、世界中にたった一人しかいなくても、
野原にピアノが転がっていたら、いつまでも弾き続けていたいくらい好きだなあ、
と言いました。
誰も聴く人がいなくても、鳥は世界に一羽だけだとしても歌うでしょう、
それと同じじゃない?
おねえさんだって、世界にたった一人きりでもピアノの前に座ると思う、
と、幻想の中で風間塵は言いました。

それを聞いた亜夜は泣き、ありがとう、とステージに向かって心の中で呟きました。

塵の最後の曲は、サン=サーンスの「アフリカ幻想曲」ですが、
編曲をしたのは風間塵本人でした。

独創的なアレンジで、極彩色のアフリカの地を飛んでいるような演奏でした。

三枝子は、足元からうねるグルーヴ感を感じ、
ナサニエルは、ドライヴ感としか言いようのない、
内臓がじわりと温められて、全身の血が逆行する感じを感じていました。

演奏が終わっても、観客の中ではまだ音が鳴っていて、
30秒ばかり経って風間塵がよろりと立ち上がり、お辞儀をすると、
狂乱としか言いようのない悲鳴と拍手が、
嵐のように5分以上もホールを揺らし続けました。
なかなかアンコールが止まなかったため、
亜夜の演奏は、予定よりも10分遅れることになりました。

亜夜は、自分が馬.鹿だったと痛感しましたが、
ステージマネージャーの田久保が「では、栄伝さん、時間です」と言うと、
晴れ晴れをとした笑みを浮かべてステージに出ました。

一曲目はショパンのバラード、二曲目はシューマンのノヴェレッタンを弾きます。

ノヴェレッタンを聴きながら、
マサルは子供の頃の亜夜と自分の姿を繰り返し目に浮かび、泣いていました。
周りの観客も皆涙をこらえていました。

三曲目はブラームス、ピアノ・ソナタ三番です。
ナサニエルは、そこに亜夜の人生を見ていました。

最後の、ドビュッシーの「喜びの島」を聴きながら、
三枝子は、同時にホフマンの声を聞いていました。

皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする、というホフマンの推薦状を思い出し、
今あたしが目にしているものが、その答えなのだ、と三枝子は考えました。

爆発的な歓喜を体現しているコンテスタント、
コンクール中に進化を遂げ、花開いていく者たち、
風間塵の才能が起爆剤となって、他の才能を秘めた天才たちを弾けさせているのだ、
というようなことを、三枝子は考えました。

三枝子たちは既にたくさんの「ギフト」を受け取っていて、
塵は「災厄」なんかではなかったのでした。

亜夜の演奏が終わると、ロビーで雅美が明石に話しかけました。

亜夜の演奏を聴いた雅美は、演奏聴いて、どういうわけか、
子供の頃のこととか、小さい時の両親の顔とか、
家族のこととか、次々に浮かんできちゃってさー、ほんと、
なんだか泣きそうになっちゃった、と明石に言いました。

それを聞いて、クラシックを聴きつけていない普通の人である雅美が、
明石と同じ感動を感じていたという事実が、
どうしようもなく明石を感激させました。
やはり、音楽は素晴らしい、コンクールを目指してきてよかった、
という感慨がいっぺんに込み上げてきて、
とめどなく涙が溢れてきました。

明石は、ロビーにやってきた亜夜に話しかけ、
素晴らしい演奏をありがとう――帰ってきてくれて、ありがとう、と言いました。

亜夜はハッとしたような表情になり、亜夜も泣いてしまいました。
明石と亜夜が抱き合って泣いていると、マサルと奏がやってきて、
2人を見て呆然としていました。

明石と亜夜も、だんだんこの状況がおかしく感じてきて、やがて噴き出し、
笑いながら謝りました。

明石が自己紹介をしようとすると、亜夜は遮って、高島明石さんでしょう、
あたし、あなたのピアノ好きです、次の演奏も聴きに行きたいです、と言いm最多。

悪寒いも似た身震いが、全身を貫き、このコンクールは始まりだ、
今ようやく、俺は、自分の音楽を、音楽家としての演奏を始めたところなのだ、
と思いました。

その後、審査結果発表時間になっても、結果が出ませんでした。

誰かが失格になったという噂が広まり、
プログラム通りではなく、繰り返しエリック・サティの「あなたがほしい」を弾いた、
風間塵が失格になったのではないか、という既定事実が広まりました。

そこへ、富樫がお花を活けるのを見に行っていた風間塵が帰ってきて、
自分が失格になったという噂を聞いてショックを受けました。

やがて、審査委員長のオリガが現れ、
予期せぬ事態でコンテスタントの1人が失格になったと告げました。

そのコンテスタントとは、「第三次予選のあと体調を崩して急遽帰国した人でした。
もうこれ以降演奏ができないのか確認に時間を要しましたが、
虫唾炎で緊急手術をして今も入院中で、本選には出られなかったのでした。

風間塵、亜夜、マサルの3人は全員本選に出場が決まりました。

また、明石のところにもコンクール事務局から電話がかかってきて、
明石に奨励賞と菱沼賞が贈られることになったと言われました。

菱沼賞は、菱沼が今大会で『春と修羅』を演奏したコンテスタントの中から、
いちばんよい演奏だったということで選ばれた賞でした。

奨励賞は、入賞は逃しましたが、印象に残る、
将来性のあるコンテスタントに贈られる賞でした。


翌日と翌々日は本選のリハーサルで、4日後には表彰がありました。

本選は、オーケストラとの協奏曲です。

風間塵は、まずオーケストラだけで演奏してもらい、
楽団員の位置を移動させました。

チューバ担当が不満そうな声を漏らすと、
そこは床がひずんでいて、密度が違うので、そこの真上に立つと、
音が綺麗に伸びていかないのだという意味のことを言いました。

塵はオーケストラとの共演が初めてとは思えないくらい大きな音で弾き、
コンサートマスターたちを驚かせました。

本選2日目、風間塵は演奏をしながら、幻想の中で亜夜と会話をします。
塵は、音楽を、世界に連れ出す、というホフマンとの約束について話し、
亜夜にも、音楽にお礼をするという約束をさせました。

塵の演奏が終わると、亜夜は、
13歳のときにドタキャンしたコンサートで弾くはずだった、
プロコフィエフの2番を弾きました。

コンクール終了後、ナサニエルは元妻の三枝子とよりを戻したいと言いました。

審査結果は、第1位がマサル、2位が亜夜、3位が塵で、
聴衆賞はマサル、奨励賞はジェニファ・チャンと明石、
菱沼賞は明石が受賞しました。


というあらすじなのですが、最後の方で、
高島明石の努力が報われたところで泣いてしまいました。

やっぱり、風間塵、栄伝亜夜、マサルの3人は、
しまうましたと違って「天才」だから、
どうしても感情移入しにくい部分があるんですよね。

その分、天才ではなく、親が富裕層でもないことが強調されていて、
働きながらコンクールに挑戦した明石に感情移入してしまったので、
努力が報われた時は本当に嬉しかったです。 見やすい記事一覧はこちらです。
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